性『ジコチュー』説

三日間青森遠征に行ってきました!修士1年の美濃です。

高校生の皆さんと交流したり、関係者の皆さんのお話を伺ったり、学年バラバラの部員同士で行動したり。

私にとっては人生初青森だったので、そう言った意味でも非常に新鮮な経験ができました。

ワンマン電車

帰りに乗ったワンマン電車。私の地元の茨城県でもここまで味のある単線鉄道は少ないのでとてもウキウキ気分で乗車しました

写真連鎖

市役所の皆さんが用意してくださった観光ルートのうちの一つ、釜臥山展望台でのワンシーン。写真を撮る人を撮る×3の結果です。

今日は最近私が感じていることをテーマに書きたいと思います。長くなるので読み飛ばしてくださると幸いです(_ _)

結局人は自分のためにしか動けないのではないか

「最近、人間って自分のためにしか動いてない気がするんだよね」

突然時間が空いた昼下がりに、友人宅にお邪魔した際、彼が突然言いました。

 人の頼み事は決して断らず、自らの身を削ってまで期待に応えるような、例えていうならいつも飲み会の幹事をやるような彼からこの言葉を聞いたことは、私にとって衝撃的なことでした。

 人は、意識的に人のために動ける生き物のように見えます。

 人にプレゼントを渡す。

 ご老人に席を譲る。

 世界のどこの誰ともわからない困窮している子供のために募金する。

 これらの行動は間違いなく他人のために自らの時間・労力・金銭という資源を消費するものです。

 単純に考えれば自らの持つ資源を消費し、他人に利を分け与える行為はその瞬間のみ切り取れば損であり、その損を積極的に受け入れることこそ、人が他人のために動ける証左のように感じます。

 しかし、これらの行動にwhy?を繰り返すことで結局自分のための行動であると解釈できるようになるのではないでしょうか。

 実は次の記念日での見返りを求めて行う投資かもしれない。

 目の前でご老人が立っていることで感じる居心地の悪さを解消したかったり、席を譲ることのできる優しい青年であるというレッテルを得たいだけかもしれない。 

 どこの誰ともしれない他人への善意にしても、究極まで言えば善行ができる自らのキャラクターを形成することで充足感を得たり、他人から評価され地位を確立することがゴールにあるのかもしれないのです。

 要は個々人が自らの理想像を持っており、結局人間は、個々人が持つ理想像を実現するためにのためにしか動けないのではないか、というのが僕と彼の仮説です。

 こう考えると、さまざまな人間が一つの部活、チームに入って一つの目標に対して動くのは不可能であるかのように感じます。

 何せ人間は皆、自らの理想を叶える自己中であり、人のため、あるいは自らが所属する組織のために動くのは原理に反するからです。

 しかし、私の肌感として東大漕艇部はその不可能を実現しつつあるように感じます。

 これは、自らの実現したい理想像が拡張し、自らの実現したい東大漕艇部の理想像を各個人が持ち行動しているからではないかと感じます。

 東大漕艇部は艇庫を綺麗に使うべきだから、廊下に落ちている誰のものともわからないゴミを捨てる。

 東大漕艇部は学年を超えて協力し全員で強くなるべきだから、学年を超えて同じクルーではない後輩に話しかけに行く。

 最近部内でちらほら聞く『自分事として捉える』というのは、この理想像の拡張をし、より広いジコチュー思想を展開することであり、その結果全体がチームのために動けるようになるのだと、私は今の東大漕艇部を見て思いました。

 このようにジコチューの範囲を拡張していくと何が起こるかというと、本来であれば個々人で重なることがないジコチューの範囲が大々的に重なり、そこに理想像のギャップが発生し始めます。

 そこで『共有のレベルを上げる』ことにより互いの考えを理解し、『フロー』による心理的安全性を確保した上で議論することで、部全体として一つの理想像に向かっていくことができるのだと、最近感じるのです。

『自分事として捉える』 = 理想像の拡張

『共有のレベルを上げる』

『フロー』状態での議論

理想像の統一化

 この流れが、部全体が一つになっていくための重要なポイントなのではないか、というのがここ最近私が考えていたことであり、このブログの結論です。

長々とすみませんでした。みなさん明日の頑張っていきましょう。

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