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精神論をどう考えるか 女子部(24)


新人選が近づいてきました。


対校選手も艇庫に帰ってきて賑やかさが戻り、

秋の深まる中、新人選という大きなレースを迎える雰囲気が準備されつつあります。


女子ダブルも、一つ決めたフォーカスに集中的に取り組むなかで、徐々に艇速が改善してきました。



さてよく言われることではありますが、

ボートは、心技体のすべてを試されるスポーツです。


良くない練習がしばらく続くと、

追い込みがたりないのではないか、

気持ちの問題ではないか、

ボートや自分のクルーに向き合えていないのではないか、

というふうに、選手の「心」を問題視する意見が聞かれるようになります。


心技体のうち、体は数値による評価ができますし、技は自分の漕ぎとイメージビデオと見比べるなどしてある程度の評価はできますが、

心については客観的な指標が一つもないため、これは難しいところです。


「気持ちの問題だ」というのはしばしば精神論、根性論などとも呼ばれ、

特に現代では非難の対象となることが多いように思います。


「精神主義」を英語でひくと、

You can’t win a battle relying on spirit alone.(精神主義だけでは戦いに勝てない)

という、精神論批判派の代表が書いたような例文が出てきました。


ちなみに「根性」というのはもともと仏教用語で、その人のもつ能力や性質を指します。

それが現在の「たくましい心」的な意味で広まったのは、1964年の東京オリンピックで女子バレーボールチームを金メダルに導いたスパルタ監督・大松博文の数々の言動がきっかけだったと言われています。


ためしに彼の発言の一部を引いてみると


4時から12時まで、毎夜7時間だった練習が、やがて一時間延び、一時間半延びるというようになり、当然睡眠時間はそれだけ減っていった。そして自分たちはすべてを犠牲にし、眠る時間も減らして練習している。この事実がやがてソ連に負ける道理がないという自信となって選手たちの胸に蓄積されていった。」


現代のスポーツ現場でこのような状況が明るみに出されたら問題になりそうです。




精神論・根性論が嫌われるのは、

その主張に合理性がないところに由来するのだと思います。


「気持ちが足りない」と言われても、それはその発言をしている人の目を通して評価されたものでしかありませんし、あくまで主観の域を出ません。

また「気持ち」を鍛えるためにと炎天下で水を飲ませずトレーニングさせるというようなことは、選手のパフォーマンスを下げるだけで何の益にもならないでしょう。


すべての問題を精神論に帰するのは非論理的に過ぎる、というのはその通りですね。


ただ、精神論は非論理的だという主張が間違っているとは私も思いませんが、

その考え方は、人間の体と心を、はっきりと分け
て捉えすぎているのではないかという懸念が残ります。


よく知られているように、体と心は別々に存在しているのではなく、

体は心に、心は体に、それぞれ支配されています。


ボート風に言えば、

エルゴの今のアウトプットをあと何ストローク保つことができるかという瀬戸際のところは、どれだけ苦しいところで耐えられるかという心にやはり支配されると思いますし、

これなら勝てる、という気持ちは、自らの強い体、数値的に言えばエルゴの記録や艇速があってこそ湧いてくるものだと思います。


精神論をむやみに否定することは、その心と体、両者のつながりを否定するように思われて少し危険だと思います。

うまくいかない理由を「気持ちの問題だ」で片づけるのは弱いチームでよくあることですが、
「いや俺達の心は完璧だった、うまくいかなかったのはただやり方の問題だ」としか考えられないのも、体に対する心の独立性を過信しすぎているようで危うい感じがします。

インカレや全日本のレースを見て、

「すごい気迫だった」

「勝ちたいという気持ちが強いからあいつらは勝った」

というふうな、精神論めいた感想を持つ人が多いことも事実としてあります。


いずれにしても、心の問題と体の問題を分けて考えすぎないようにすること、

言い換えれば、ボートはあくまで生きている人間がやっていることだという認識を失わないことが大切なのではないかと感じています。


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