二月になりました。
先週はブログを更新できず申し訳ありませんでした。
大学のレポート類が立て込んでいたのですが、それも一段落したので今週からまた更新を続けさせていただきます。
レポートの資料を探しているときに、ボートについて書かれた文章をたまたま見つけました。
一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして、筋肉によって味覚さるべきものである。疲切った腕がなおも一本一本のオールを引切って行くその重い気分は、人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る。この微笑気分はよき練習と行きとどいた技術の訓練においては特殊の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかかわらず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるまま思切り振舞って、しかもあるべき調子に乗って行く気分である。それはいわば骨(こつ)、気合の冴えとでもいわるべきものである。耐えることは最早放棄しか有得ない極みにおいて、何物かに身を委ねる。それはフォームといわんにはあまりにも流動的である。成長するモルフェの瞬間的な把捉であり、時そのものの特殊な実存的深化である。よくコーチがどうしてもフォームを修正できない選手をして疲切らしめる事がある。その疲労の中にしかもオールを引いている選手に対して「そうだ、その気分を忘れない様に」という事がある。未だ自らのフォームを自らが意識しているうちはそのフォームは真のものではない。いわば「岸が気にかかっている」。すでにいわゆる天地晦冥ただ水とオールとに成りきるとき、身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。その気分の中にこそ、成長するフォーム、生身の型がある。それはコーチの百千万の警告も只閑葛藤にすぎずして、遂に伝え得ない底のものであり、耐えることの極みにおいて、働きそのもののみが告知するところのものである。ベッカーのいわゆる「自然の好意を経験する」とでもいうか、そこにあるものは形而上学的時間、即ちハイパーフェノーメンの領域である。「異った時間の同一の今」が、即ち流れない時がそこに只拡って行くのである。その意味でフォームは自ら産み出ずる図式であり、人間の心霊の深みに隠れている技術であり、自然の内奥より窺い学ぶべき闘うこころなのである。(『スポーツ気分の構造』中井正一、1933)
この文章を書いた中井正一という人は、日本の美学者、評論家として活躍した人で、京都大学のコックスをしていました。ちなみに、日本で初めて、帝王切開の手術によって誕生した人物でもあるようです。彼が大学に入学したのは1922年のことなので、大分昔の人ではありますが、それでも、書いてあることは、現代という時代にボートを漕ぐ我々にも、生の感覚として理解できるものであるような気がします。
無数のストロークを積み重ねるなかで、一つでも多くのクルーが、形而上学的時間の領域まで到達してほしいと思います。