去年の夏のことである。僕は池袋にあるサンシャイン水族館に向かっていた。実家から東京に帰ってきて初日。誰かを誘うつもりだった。結果は×。誰も来なかった。デート、友達、めんどい、、、。みんな、個々人の予定があるんだな、そう感じた。
サンシャイン水族館に着くと家族連れ、カップルが列を作っていた。時期は9月、夏が終わりかけている。みんな残暑の余韻を楽しみたかったのであろう。ただ、僕だけが独りだった。
列に並ぶ。横には誰もいない。周りの楽しそうな雰囲気が目につく。気持ち悪い。なぜこんなところに来たのだろう。券を買うまでそのことをずっと考えていた。
券を買う時。係の人に言われた。「あそこに券売機がありますので、そちらでお買い求めください」。僕の前にいた家族連れとかカップルとかはみんな窓口で券を買っていた。ただ、僕だけが券売機に対峙していた。1人で窓口に立ってはいけないのか。解せなかった。
券を買って中に入る。係員の乾いた笑顔の前で券がきられる。時刻は3時。昼下がりだ。水槽展示を見てまわる。中ではマジックショーやらお魚の説明やら楽しいことが行われていた。子供たちが騒いでいる。大人たちはだべるのに必死だ。ただ、僕1人だけが静かである。
お魚を見る。みんなそこが海であるかのように泳ぐ。川であるかのように泳ぐ。健気だ。多分死ぬまで気づかないのであろう。何も考えず泳いでいる。音も立てず静かに泳いでいる。気の合う仲間だ、と僕は思った。
出口でカワウソの展示を見た。家族でハンモックに寝そべっていた。1匹が落ちそうになっていた。耐える姿が可愛くて。魅入っていた。カップルがたくさん集まってきた。写真を撮り始めた。僕はそこを離れた。
帰り際、お父さんにぬいぐるみをねだる小さな女の子を見た。よほど欲しいのかなかなか父親の言うことを聞かない。最後には父親が愛想を尽かして連れて行ってしまった。女の子は泣いていた。大泣きだった。
遠巻きからそれを眺めていた僕はふと思った。人はなぜ泣くのか。悲しいから。いやだから。理由はたくさん思い浮かんだ。ただ、しっくりくるものはなかった。
自分の人生を振り返った。いつ自分は泣いたのか。中学受験に失敗した時。だいじな試合を前にしてインフルエンザにかかった時。大学受験に失敗した時。共通点はなんなのか。何の気なしに探していた。
不意に思った。自分にできることが何もないではないか。状況を変える力が自分にないではないか。
受験に落ちたところで自分にはそれを合格にできる力は存在しない。
インフルにかかったところで自分にそれを今すぐ治す力はない。
状況をどうしようもできなくなったとき、人は涙を流すのだ。
小さな女の子も自分にぬいぐるみを買わせる力がないと分かったから涙を流したのだ。
電車に乗る。いつもの道、いつもの路線。ただ、さっきまでの暗い気持ちはどこにもなかった。清々しかった。
今後、コロナによってさまざまな試合が中止、又は延期になるであろう。しかし、今は泣く時ではない。なぜなら、この状況は自分の力でどうにかできるはずだからだ。今の自分にできることをきっちりやって、その時を待とうではないか。自由にボートが漕げる日を待とうではないか。
その時に泣けばいい。コロナのない状況が不変なものになった時、それが変わらないことを感じて、泣けばいい。
漕艇部2年 三木健司