建築とは身体の延長にある、空間の書き換えである。
駒場幼稚園を出て、遠足と図工ばかりのけんちく小学校に進学、現在の最終学歴はアンモータースクール卒の三浦です。
建築を学ぶ中で、ガラ、と人生観が変わったというわけではないけれど、ものの見方があちらで少し、こちらで少し、と見てなかったものを見るようになったり、見る場所が変わったりした。
例えばこれ。

我らが戸田公園駅から艇庫までの道すがら、ボート部だったら絶対一回は通ってる道沿いの光景。
交差点で、奥に行くと川をまたぐために橋がかかっており、また斜面になっている。
何の変哲もない斜面に見えて、手持ちの勾配計で測りに行ったら、斜度が11%ある。これは勾配1/12(≒8%)よりきつく、つまり、バリアフリー法で定める勾配の基準よりきつい、車イスで上るのは厳しい斜面となっている(実際には屋外では1/20=5%くらいでないと疲れてしょうがないと言われている)。
ただの斜面として見ていたものの意味が変わる。
別な話題。
建築では、広場が大事だ。人がたくさん溜まるからである。
ただ一口に「広場」といっても、

こんな風に人気のところもあれば、
公園と称しながら、

こんな風に体操のおばちゃんしかいないところもある。
建築学の研究によって、高層ビルの足元にあるような公園(オープンスペース)に関して、人がたくさん集まる条件は日当たり(※)やデザインのよさでも、広場の形や大きさでもなく、「座れる場所の量」「道路との境界が明瞭なこと」そして最も重要な点として「食べ物」の三つだとされている。通り過ぎるための場所から分離され、落ち着いて腹を満たせる場所ということなのだろう。
その観点で一つ目の広場を見れば、自転車に座っている人は例外としても、真ん中の芝生は中央に向かって盛り上がっているため、座る場所をいくつも見つけられる。手前の2人は広場の碑をうまく背もたれに使って座っている。
境界の明瞭さは薄いが、中心に向かっていく敷石の模様などで、こじんまりとながらもここがただ通るための場所ではなく広場であることを主張している。
さらに、最も重要なことには、すぐ目と鼻の先にコンビニがある(写真の当時は。今はつぶれてしまった。)
二つ目に目を転じれば、開けすぎているせいで道路と合体してしまっているし、住宅街のど真中。段差はたくさんあるが、どれも10cmくらいで膝が立ってしまうので、座れるのは手前スロープの手すりくらい。
同様にしていくつかのデザインの「〇箇条」が煎じ詰められている。また、その多くが具体的な大きさと形——寸法を持っている。
建築とは何か、ということを聞かれるとちょっとこまってしまうが、一つには冒頭に述べたようなことがあると思う。誰しも空間に対する反応は鋭敏であり、こちらがしつらえたものに対して何かしてくれる。例えば床から膝の高さくらいのでっぱりをつくったとして、人によっては座るかもしれないし、ある人はもたれたり上に立って伸びあがるかもしれないし、ある人は全く無視して素通りするだろう。「そんなのは人によって千差万別」と多くの人は思うが、でっぱりの大きさや形、置く場所によって、実はとる行動はそろってくるのである。設計者の意図に沿う形にせよ、全く想定していなかった使い方にせよ。それは建築の面白さでもある。その他の芸術では言葉にしてもらわない限り、鑑賞者がどう感じたかは表に出ないことの方が多いが、こちらはもろ、全身に出る。
ボートの話ばかりでも話題は尽きないが、ボート部員の話でもしてみようかと書いてみた次第でした。
3年 工学部 建築学科 三浦
(※)スウェーデンでは、日照量が少ないためか公園では明確に、「人のいるところ」と「日の当たる所」が一致するそうである。お昼休憩になると人がわらわらと出てきて、めいめいの場所で日向ぼっこをするのである。高層ビル足元の広場についての研究を無理やり敷衍するのに無理があるのかもしれないが、広場三箇条は緯度数十度までのあらゆる広場ではある程度の真理をついたことであるように思う。より普遍的な法則はあるのだろうか。